出羽国飽海郡の中山村に、庄内藩の支藩として松山藩が置かれた。正保4年(1647)のことである。庄内藩主の初代は徳川四天王の一人、酒井家の三代目酒井宮内大輔忠勝(ただかつ)(14万石)であった。忠勝公の遺言により三男酒井大学頭忠恒(ただつね)(2万5千石)に分地し、松山藩とした。当時、支藩を持つのは大藩がお家断絶を免れるための常識とされている。 |
松山藩の付家老・松森胤保は、庄内藩士・長坂市衛門治禮(禄高200石)の長男として、文政8年(1825)6月21日、鶴岡二百人町で出生した。幼名を錬之助といい、2歳のとき源之助、9歳になって欣之助と改める。なお克禮(かつのり)とも称した。論語の克己復禮(こっきふくれい)に由来している。 |
幼少の折、欣之助は海岸で遊び、きれいな石を見つけて大事に持ち帰った。以来、石に興味を持ちいろいろな石を集める。小鳥の飼育を始めたのは7歳のころからで、ヤマガラやシジュウガラ、ホオジロなどを飼って観察していた。9歳のときには鉱物や昆虫、化石、石器、土器などに関心を寄せ、変わった物や珍しい虫類を収集する。鳥の絵を数多く描いたのは12歳ごろからであった。 |
天保8年(1837)13歳で藩校致道館に入り、四書五経並びに儒学の素養を身につけ、実証的な精神を培う。また書画の道にも才能を発揮した。 |
16歳になって藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習う。この年の夏に元服し、名前を「胤保」と改めた。18歳で宝蔵院の鎗術を学び、加えて居合や砲術、水錬を教わる。21歳で字名(あざな)を基伯と称し、後、南郊と改めた。22歳で結婚したが、まもなく離婚する。32歳のとき、藩医・松山道任知剛の長女鉄井と再婚した。5男6女の子宝に恵まれる。 |
胤保は38歳のとき長坂家を相続した。文久3年(1863)6月1日、39歳で松山藩付家老に任ぜられる。以来、56歳まで、壮年期の17年間を松山で過した。維新前の世情が騒がしいなか、元治元年(1864)6月に江戸詰めを命ぜられ、見廻り役を勤めた。(庄内藩主が江戸市中取締役を拝命)胤保は江戸で小鳥屋や見世物小屋、書籍店などを回り、いっそう見聞を広める。更に家老職だけに許された猟銃使用の特権を得て、大鷹属を捕えることができ、以後の研究に拍車がかかった。 |
慶応4年(1868)7月初め、戊辰戦争が勃発すると、松山藩一番隊長と庄内藩一番大隊参謀を兼ねて出征する。9月に戦争が終結し、軍功により藩主酒井忠良(ただよし)から30石を加増され、脇差一振りを拝領するとともに、松山藩の守護者の意である「松守」の姓を賜った。固辞したが許されず、守を森に代えて「松森」を姓とし胤保を名とする。 |
明治2年(1869)松山藩は松嶺藩と改称した。藩知事・酒井忠匡(ただまさ)の下で大参事に任ぜられ、同4年の廃藩置県後は松嶺区長、藩校里仁館惣管兼大教授ほかを歴任した。また、多難な戦後処理と新体制移行業務全般を司る。 |
明治12年(1879)9月鶴岡に帰り、同14年山形県会議員、同17年4月酒田町戸長として活躍した。同18年7月病のため公職を辞す。以後は研究著述に専念し、同25年(1892)4月3日69歳で永眠した。墓は鶴岡市禅源寺にあり、家督は二男の昌三が継いで、松森写真館を開業し、繁盛して現在に至っている。 |
胤保は、生涯に膨大な著述を成した。酒田市立光丘文庫が蔵する松森文庫187冊はその主なものだが、全体の著書は400冊を数える。全著作を完読することは難しいが、著書の一端をうかがうだけで、並外れた才能にだれしも魅了されるであろう。 |
胤保はどんな物事についても文章で表現するとともに、細密な自筆の絵を加えた。文章と絵の効果があいまって、より興味を引き理解を深める。更に、場所および年月日の付記が博物図譜の名称にふさわしい。 |
慶應義塾大学の名誉教授で、理学博士の磯野直秀は、日本を飛び越えて大英博物館から目をつけられても不思議ではないと『両羽博物図譜』を評価している。 |
また牧野富太郎理学博士も生前、光丘文庫を訪れて親しく『両羽博物図譜』を開き感嘆の言葉を述べた。 |
松森胤保は、動物学、植物学、考古学、物理学、天文学、民俗学など多彩な調査と研究に取り組み、合わせて政治家としても活躍した。小さなものはミジンコから大宇宙にわたり、飛行機の発想までも考え残した人物胤保は、西洋のレオナルド・ダビンチにも匹敵する博物学者であった。 |